居酒屋のために役立ちたい方必見

はっきりしていることは、古代、およそ世界中のひとが牛乳を飲んでいる時代に、中国と日本(と周辺の2、3の民族)だけはぽっかりと牛乳の真空地帯のように、″無乳″の文化をつづってきたらしいことだ。 日本神話の中では、初めのほうに牛は馬といっしょに登場するから、飼うことは飼っていた(おそらく農耕用として)、牛乳を飲んでいたらしい挿話はない。
ただ、『日本書紀』の神武天皇の紀には、天皇大和の宇陀というところで首領の兄滑を亡ところ、弟滑、「大いに″牛酒″をごちそうして、天皇の軍勢をねぎらった」というくだりある。 この「牛酒」も問題になるところで、「牛肉と酒」の意ととるか、「牛乳酒」とするか、いずれにしてもわが国上代の食生活の推測かなりちがってくる。
当時(5世紀ごろまで)、日本では牛肉も牛乳も食用とされていなかったと考えられるからだ。 牛乳酒というのは牛乳を発酵させてつくる酒で、現在もコカサス地方にはケフィアという酒ある、酸味のある羊乳の発泡酒もつくられている。
馬乳酒というのもあるらしい。 T田祐吉氏の校註では、「牛酒」は「肉と酒」のことで、漢文の熟語を使ったためだ、とある。
その後欽明天皇(540〜571)の時代に百済から牛を輸入したという記録あり、さらに孝徳天皇(645〜654)の時代、百済からの帰化人の福常というひと初めて牛乳をしぼって天皇に献上したところ、孝徳天皇は大変喜んで、「和薬使主」という姓と、「乳長上」という職 を授けられた。 「くすりのおみ」というのでもわかる当時、牛乳はもっぱら貴重な薬ないし特殊な栄養剤と考えられていた。
福常はさらに「大山上」という位をいただき、子孫は代々この業を伝えて朝廷に仕えることになった。 こうして大化改新の嵐の中で、牛乳はいったん日本貴族の生活の中に根をおろしたかにみえた。
奈良時代に入ると、記録などに「乳牛」とあり、奈良時代の初期には公に認められたと考えられている。 また、このころには「蘇」や「醍醐」というものについての記事あり、バターか固乳のようなものといわれ、奈良時代、牛乳はかなり広く普及していたと考えられる。
当時、牛乳を煮沸して飲む習慣だったという。 牛乳が1種の薬と考えられていたことや、いきなり乳製品の1種つくられたことと思い合わせると、このことは興味深い。

こうしていったんはひろまりかけた牛乳飲用の風習も、天武朝をはじめとする度重なる肉食禁止令の影響ですたれていった。 代りに、日本人はせっせと魚を食べてきた。
殺生はいけないといいなら魚を例外とするのも融通無磯すぎてものなのだが。 もっとも、中世以後の牛乳飲用の中絶・を仏教の影響だけで片づけるのには異説ある。
もともと仏教は酪農教というべきもので、前述の釈迦のエピソドからもわかるように、仏教の教義は絶対に牛乳の飲用をさまたげていないという。 仏教に深く帰依し、尊仏を施政方針の第1にかかげていた聖徳太子も、牛乳の常習者(?)だったということだ。
当時は乳牛のよいものがなく、搾乳量も貧弱で、今日の最低の搾乳量の3分の1以下だったと計算されている。 牛そのものの数も少なかった。
日本で牛乳ふるわなくなっていった原因の1つは、案外こんなところにあるのかもしれない。 つぎに日本に牛乳はいってきたのは、ずっと降って江戸時代の中ごろ、8代将軍吉宗のときである。
こんどはオランダ人のすすめで白い牛輸入された。 水戸の烈公も愛用したといわれる。
初めはやはり特殊な階層のものにかぎられていた、明治維新直前の文久3年(1863)には、横浜に日本最初の搾乳業が開かれた。 ハリス牛乳を恋いこれなら日本を去った翌年のことである。
もう育児のために牛乳が用いられることも始まっていたらしく、「人間の子まで育てる牛の乳」という川柳も残っている。 明治3〜4年ごろには、東京で5〜6人のひと搾乳業を始めた。

そのころの飼牛は全部で15頭、牛乳搾乳量は1日わずか1石2斗(216リ″トル)だったという。 その1つ、「牛馬会社」の宣伝文は次のようなものである。
「わが会社、………近来は専ら牛乳の用法を世に広麺として、いろいろに製し、乾酪(洋名チズ)、乳油(洋名バタ)、懐中乳の粉(洋名ミルクパヲダル=粉ミルク)、懐中薄乳の粉(洋名コソデソスドミルク)等あり、そもそも牛乳の効能は、牛肉よりも尚さらに大なり、熱病労症などモのほかすべて身体虚弱なるものには欠くべからざる品、実に万病の1薬と称するものなり、ただに病にもちうるのみならずヽ西洋諸国にては平日の食料に牛乳を飲むはもちろんヽ乾酪(チーズ)、乳油(バター)などもちうること、わが国の松魚節に異ならず……」(原文のまま) 牛乳製品鰹節にたとえられたのは、初めの終りで、どうもあまりピソとこない、単によく食べられる点を強調したかったのであろう。 このことは反面、化学調味料の発達で鰹節をあまり使わない現代とくらべて、当時の鰹節消費の様子しのばれて興味深い。
食品にうま味をつけるために鰹節やだしやこがふんだんに使われていたころは、それらを通じて日本人は自然にカルシウムを摂取していたわけで、肉食の習慣と化学調味料の隆盛もたらした変化の1つ、日本人のカルシウム不足だといっていいだろう。 現在の日本人のカルシウム摂取量の不足はしばしば指摘されるところで、今日、牛乳の栄養的価値はもっぱらカルシウムの不足を補うことにあるといえる。
欧米人はカルシウムのほとんどを牛乳に依存しているといわれる。 ことカルシウムに関するかぎり、百年前のあの牛乳と鰹節のたとえは、重大な意味をもっていたことになる。
京都では明治5年ごろから府の牧畜場で牛乳をとり、配達も始めた、その牛乳消費宣伝の回女には、 「それ牛乳の新たに搾れるものは、すべて元気不足の病、または労症、血虚の病、その他大病中または病後に用ひて元気を助け血液を補ひて、死すべき命も助かるほどの良効あり。 血病の人なく用ふれば腎を増し、精を強くし、顔色を麗しくなし、皮膚を肥やし、5体を健やかにして、老ひても衰へざる無比長寿の仙薬なり……」 とある。

美容強精の薬、死ぬはずの命も助かる不老長寿の仙薬などと、牛乳照れるほどの薬効うたい上げられており、この辺に千数百年前の「和薬使主」以来、日本での牛乳の地位がもっぱらその薬効にあったことうかえる。 長い鎖国からめざめて、近代国家として進むことを国是とした明治の世では、すべて欧米にならうことに急だった、牛乳は牛肉とならんで、政府や知識人国民に売り込もうとする文明開化の目玉商品の筆頭だった。
F沢諭吉らも牛乳の栄養価値の啓蒙にとめたし、牛乳業は高級な商売の1つとされたらしく、山県有朋、松方正義、榎本武揚、松平太郎、副島種臣など率先して出資し、事業主となっている。 これらは政府の士族授産政策によった「武士の商法」の1つ、だったわけで、牛乳店もうかったらしい。
家は玄関構えで、袴をつけた玄関番いて、注文にきたものはおずおずと、「遠方お気の毒ですどうか毎朝1合ずつお届けなすって下さい」と頼む、といった有様だったという。 牛乳の使い捨て容器問題となっている今日からみると、百年前のこの配達システムも、衛生面を度外視すれば捨てたい。
「つかないマッチ」だの、「燃え上るランプ」だのと失敗の多かった「武士の商法」の中で、牛乳業はうまくいったほうだったらしい。

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